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2018年7月 6日
昭和39年の創業以来、香川県観音寺市にて帽子を作り続けている会社があります。「丸高製帽所」さんです。
創業当時は麦わら帽子を製造していましたが、数年後には布の帽子も作り始め、現在は、布製の帽子と男性向け麦わら帽子が全体製造量の99%を占めています。
その昔、香川県には麦わら帽子を製造する会社が十数軒ありました。しかし、ここ10年程、国外からの帽子の輸入が増えた関係で、以前は製造をしていた会社も多くが問屋になっていったそうです。
現在も帽子を作り続けている会社は香川県内では数軒程度。四国を見渡しても数は少なく、香川県外では愛媛県に1軒のみです。
私たちがよく目にする帽子は、ベトナム製・中国製といった外国製がほとんどです。
そんな中、丸高製帽所さんは今も香川県で帽子を作り続けています。
実は直接小売店へはほとんど商品を卸しておらず、栗林庵で丸高製帽所さんの帽子が買えるのは貴重です。
帽子を作る際は、毎年、メーカーや問屋さんと意見をすり合わせながら作り上げるそうですが、専任のデザイナーがいないメーカーには、希望をもとに丸高製帽所さんから提案を行うこともあります。
抱えきれない程の膨大な生地見本から素材を選び、デザインを提案し、相手の希望に合わせて作り上げていきます。
デザインを考える時には、その年人気の帽子のデザインや女性ファッション誌なども参考にしながら、流行の色も取り入れてデザインしていくそうです。
長年帽子を作り続けていると、昔に比べると男の人も女の人もサイズが小さくなっていることを実感されるそうです。
また、日照時間や気温などの関係でしょうか。東京より北にいくと帽子のつばが短く、関西・四国・九州では帽子のつばが大きく広いものが好まれるそうです。
麦わら自体は100%が海外、そのうち90%が中国のもの。昔は香川県内外でも小麦の茎を手で編んでいる光景がいたるところで見られたそうですが、今となっては麦わらを日本で作るところはほぼないそうです。
小麦の茎を編み、一本の長い紐状になったものを丸高製帽所さんが帽子の形に編んでいきます。麦わらの編み目が細かいほうが帽子自体も高価になるのだとか。
現在も帽子づくりに使われているミシンの中には、麦わら帽子専用のミシンもあり、そのミシンはなんと100年以上使われている年代物。しかし、今では製造メーカーがなく、もしも壊れてしまったら、部品から自分たちで作らなければいけないそうです。
ただし、麦わら帽子と一口に言っても価格帯もとても幅広いため、手頃な価格帯のものは、すでに帽子の形になったものを仕入れ、成型をするというように、商品によって製法を変えています。
形ができあがった麦わら帽子は、プレス機にかけます。このプレス機の金属部分を変えることで中折れ帽子、カンカン帽など、帽子の形が決まります。
つまり、帽子の数だけプレス機の型枠も存在します。しかしこの型枠を作る会社も、今では日本で1軒だけ。
帽子づくりを支える機械たちも貴重なものになっています。
工場では、たくさんの帽子が出荷の時を待っています。
麦わら帽子と一口に言っても、藁や藁様の素材で編まれており、様々な素材が増えています。経皮(木の皮)やい草、最近では安くて軽いということから紙も増えています。
布製の帽子にも様々な生地が出ています。花粉対策の生地を使っていたり、徳島の藍染や高知の紬、岡山のデニムで帽子を作ったこともあるそうです。
こぼれ話として、約20年ほど前に、こすると匂いのする生地で帽子を作った時にはあまり売れなかった(笑)という逸話も教えてくれました。
夏や冬に使うイメージが多い帽子ですが、製造は1年中行っており、麦わら帽子の出荷は2~4月にピークを迎えます。
毎年7月にはもう翌年の麦わら帽子の見本を作り始め、9月にはその見本を持って営業に行くそうです。
帽子を彩るリボンも、帽子の形、素材、色に合わせて選びます。
麦わら帽子の素材によっては、とても柔らかいものもあります。
そういったものは、成型後に天然のニスにつけることにより、固く、型崩れしづらくなります。
このニス付けの作業は乾燥させる必要があるため、湿度が重要になってきます。そのため、梅雨の時期は毎日できる作業ではありません。
作業ができる時には1日に2度、この木のオブジェのように広がる枝に1つずつ干していきます。
帽子が好きな方の中には、新聞やテレビで丸高製帽所さんの存在を知り、直接工場に問い合わせをしたり、訪れる方もいるそうです。
それほど、国産の帽子作りは珍しくなっているのでしょう。
職人さんは1つ1つ丁寧に帽子を仕上げていきます。
丸高製帽所の皆さんから、帽子に対する愛情と情熱が伝わってきます。
2018年6月15日
2018年3月、栗林庵のオリジナル商品として発売開始以降、(2018年6月時点で)合計600枚以上を販売したヒット商品「おいりこたおる」。 その製造元である株式会社オーキッドさんを訪ねました。
今回は営業主任の廣瀬裕詞さんにお話を伺いました。
オーキッドさんは今年2018年で創業30年を迎えます。
創業当時の30年前はバブル景気の時代で、東かがわ市の手袋産業が活気づいていた時代です。そんな中、オーキッドさんは手袋ではなく、あえて今治タオルの刺繍加工業をメイン事業として創業しました。
当時は自ら愛媛県今治市へ出向き、タオルを預かった後に香川県のオーキッドにタオルを運び、加工し、さらに徳島県の縫製会社で仕上げ、再度今治の会社へ納品をする、という形態を取っていたそうです。
30年前といえば、今ほど流通インフラや物流がまだ整っていない時代。「自ら足を運び、誰もやりたがらないことをやる。それがひいては自社の強みになりました。他社がやっていることはやらないというこの姿勢は、現在に至るまで会社の考えとして根付いています。」と廣瀬さんは言います。
30年前、高松空港に近い香川郡香川町(現高松市香川町)で創業したオーキッドさんですが、2013年に現在の高松市六条町に本社事務所を移転しました。現在は、高松市六条町の本社、創業の地である香川町の工場、岡山県の工場と3拠点、総勢27名で製造から販売までを行っています。
創業から30年たった今では、タオルはもちろん、リストバンド、帽子、衣類、のれん、風呂敷、ネクタイなど、繊維製品全般に刺繍を施しています。
特にリストバンドは自社生産をしており、国内シェアはトップクラス。
全体の9割ほどがOEM生産ですが、個人の方からも依頼があるほか、プリントを専門にされている会社さんから刺繍の相談を受けています。
香川県は繊維業が多く、他社とのつながりもあるため、仕事をシェアしあうこともあるそうで、そういった体制に驚かれる方も多いのだとか。
現在は他社と色々な形で協力し会える関係性づくりをしているそうで、「お客様が同じでも、やっている仕事が若干違う。それがいいバランスを保てている要因かなと思います。それも楽しいです。」と廣瀬さんは笑顔で語ってくれました。
20名以上の社員がいる刺繍業は日本全国でも20社ほどしかなく、オーキッドさんが導入している機械の台数は西日本トップクラスを誇ります。
他社との差別化を図る、他社がやらないことやできないことを行うという精神は、機械の台数、そこから生まれる生産量にも繋がっています。
現在は国内市場向けをメインで事業を展開していますが、強みを活かし、今後は海外展開も視野に入れているそうです。
過去には難しい依頼に直面した時もあったそうです。けれどそういう時にも知恵を振り絞って、みんなで協力して乗り越えてきました。さらに、難題を乗り越えることによって、新しい技術や時代のニーズも敏感にキャッチできるようになったそうです。
「無理というとそれで終わってしまう。逆に進歩がない。とことんやってみてそれでもダメなら仕方がないけれど、うちのスタッフはみんな、よっぽどのことじゃないと「無理です」と言わないんです。」と教えてくれます。
創業以来継承されている「楽しんでみんなでやろう」という社長の前向きな精神が社内に根付いているそうで、チャレンジする姿勢はそういった精神から生まれる社内風土の賜物だと感じました。
オーキッドさんにお伺いして感じたのは、女性のスタッフが多いということ。そして、皆さん、業務中は真剣な眼差しで仕事をされているけれど、説明をする時はイキイキとした笑顔で話をしてくださることでした。
そのあたりの話を廣瀬さんに伺うと、保育園や幼稚園の送り迎えの時間に間に合うようにするなど、スタッフの皆さんが働きやすい環境づくりをしているとのことでした。
「刺繍業に関していうと、必ずしも男性でないといけないということもないですし、きめ細やかな仕事というところでむしろ女性の方があっていると思うんです。小さいお子様の急な体調不良などはみんなでカバーしあって、お客様に迷惑をかけないような形で仕事を進めていける企業づくりを目指しています。
また、現在30代のスタッフは、10年後、20年後とかお子さんが手が離れた時にまだまだ40歳、50歳手前という年齢層です。それまでに弊社でノウハウや経験を積んでもらっているというのは、長期的なビジョンで見るといいのかなと思います。本人が望めば社員としての雇用という形が取れるよう、目指しています。展示会や百貨店での販売の際は、正社員、パート社員関係なく関わってもらい、お客様との接点を持ってもらうようにしています。」
現在の職場環境を充実させることだけでなく、先を見据えての取り組みを始めていることや、働く皆さんにお客様と直接関わることで感じる喜びや発見を体感してもらいたいという思い。
廣瀬さんの言葉を通して、オーキッドさんが従業員の皆さんをいかに大事に考えているかが伝わってきます。
栗林庵で販売している「おいりこたおる」はオーキッドさんが実用新案を取得した「せと刺しゅう®」という技法を採用しています。
初めて「せと刺しゅう®」を目にする方からは一様に「これ刺繍?」「本当にこれ刺繍や!すごい!」「どうやって作ってるの?」「刺繍ってこんなことができるんだ」という反応がまず返ってくるそうですが、実際手に取るとその良さを実感されるそうです。
「せと刺しゅう®」のそもそものきっかけは、やはり他社との差別化でした。
新しい転写技術がどんどん開発され、なんとか刺繍と転写技術を組み合わせられないかというところから生まれました。
最初の頃は社屋の広さなどの問題がありましたが、2013年に本社を移転したことにより、転写機を導入し、それを機に研究開発に力を入れ始めたそうです。
瀬戸内海は繊維業が盛んな地域。その強みを活かした刺繍、自分たちにしかできない刺繍であること、そして20年後、30年後は瀬戸内海が刺繍・繊維の産地になりたい、そういう思いを込めて、瀬戸内海の「せと」を取って、「せと刺しゅう®」と名付けられました。
せと刺しゅう®では、刺繍の上にプリントを施すことで、通常の刺繍では難しい、まるで写真のようなリアリティのある繊細な表現が可能になりました。
刺繍自体は糸一色で行うため、刺繍が施された背面も複雑な糸の絡みなどはなく、きれいな状態です。
刺繍後のプリントの作業は、一枚一枚人間の目で確認をしながら手作業で仕上げていくため、集中力、そして時間、労力も必要になる大変な作業です。
おいりこたおるの誕生以前、せと刺しゅう®の魅力を聞いていた栗林庵では、「いつかせと刺しゅう®を使って何かを作りたい!」という思いがありました。香川県ならではのモチーフで何かできないかと考え、おいりといりこを選び相談したところ、「やってみましょう!」と受けてもらったのが、おいりこたおるの始まりです。
糸の張力の関係で、おいりの形が楕円形になるため、微調整をしたり、色味の調整をしたりと、製品化までには、何度か試作を繰り返しました。
刺繍の起源はいつ頃なのかわからないほど古く、昔は刺繍が所属を表す役割をしていたのではないかと考えられているようです。それが時代の流れとともに、昔からある加工方法とプリントなどの現代の方法とが融合して、だんだんと変わっていく。
廣瀬さんも刺繍のそういったところに面白さを感じ、これからもまだ変わっていくのではないかと考えているそうです。
お話を伺っていると、普段あまり意識していませんが、刺繍が身近に溢れていることに気付かされます。
ぬいぐるみ、キーホルダー、テーブルクロス・・・生活に溶け込みすぎてわからないくらい、刺繍が私達にとても近い存在であることを感じます。
廣瀬さん始め、スタッフの皆さんのお話から、おいりこたおる、そして刺繍に対する愛情を感じるとともに、せと刺しゅう®がこれから世界へと広がっていく様子を思い描いた1日でした。
2018年5月31日
四国八十八箇所霊場七十九番札所「天皇寺」のすぐ近くでところてんを作り続ける、清水屋さん。涼しげな湧き水の音と鮮やかな木々の緑が美しいこの場所には、涼を求め多くの人が訪れます。
清水屋さんがある「八十場(やそば)」という地名は、景行天皇の時代の「悪魚退治」という伝説に由来し、悪魚と戦い、毒にやられた88人の兵士がこの地の水を飲んで元気になったと伝えられています。この伝説から「八十蘇生場(はちじゅうそせいば)」といわれ、「八十八(やそば)の水(八十八の清水)」と言われるようになりました。
また、配流された崇徳上皇が亡くなった折には、腐敗を防ぐため、涼しい木陰でこの地の水を使用したという歴史も残っています。
今回お話を伺ったのは8代目、筒井雄一郎さんご夫婦。
清水屋さんがこの地でところてんを作り始めた作り始めたのは江戸時代にまでさかのぼります。そのころ書かれた「金毘羅参詣絵巻図」には「心太(ところてん)・西瓜(すいか)・焼酎の商いが行われていた」と書かれています。
明治時代には、画家の尾崎秀南が「弥蘇場(やそば)の湧泉」と描いており、昔からこの地を人々が大切にし、守り続けてきたことが分かります。
今はこの地も海沿いから離れていますが、昔は海が近かったようで、近くには船着き場のようなところも残っており、ところてんの材料となる天草が採れていたそう。
豊かな湧き水と近くで材料が採れるという立地から、ところてんづくりが始まったのではないかと考えられています。
現在も湧き水をところてんを冷やし固める時に間接的に使っているそうです。
ところてんを作るには、水がきれいであることが大前提。加えて、ところてんは夏に涼を得られる食べ物なので、涼しい場所というのも必要になりますが、清水屋さんの場所はその条件にぴったりの場所です。
近くには四国八十八箇所霊場七十九番札所「天皇寺」があり、ちょうど四国遍路の裏参道にあたるため、昔から清水屋さんで休憩をするお遍路さんも多くいるそうです。お遍路さんが休憩をすることで、清水屋さんのところてんは各地へ広まっていったのかもしれません。
現在のお店の営業は毎年3月末から11月いっぱいまで(10月、11月は日・祝日は定休)ですが、忙しいのはやはり8月。香川県内のお客様が多いそうですが、お盆の時期などは県外から帰省をして食べに来られる方もいて、県内外問わずたくさんの方がいらっしゃるそうです。
おやつの時間(14時~16時頃)に食べに来られる方が一番多いそうですが、満腹感を得られるのと食物繊維も多いことから、実は、お昼ご飯前にところてんを食べてからご飯を食べに行く人もいるそうです。
元々は酢醤油だけだったという味も、今では様々な味が用意されています。
お遍路さんや、全国各地から来られるお客様から、「この地方はこうやって食べるのよ」とご当地の食べ方を教えてもらって、味のバリエーションをどんどん増やしていったそうです。
一番人気はやはり酢醤油。最近はきな粉と黒蜜という「くずもち風ところてん」も人気です。
時代や食文化の変化に合わせて色々な味も考えているそうです。
また、30年ほど前からは持ち帰り用のところてんの販売を始め、このおかげで、さらに遠方の方にも知ってもらえるようになりました。
清水屋さんのところてんは、国産の天草を使用しています。国産の天草は、採れる量も採る海女さんも減っており、年々価格が上がっているそうです。
春に採れる「春摘み一番草」が一級品と呼ばれるそうですが、清水屋さんはこの「春摘み一番草」を使用しています。
本来、天草は深い赤色ですが、天日干しをすることによって薄いベージュ色に変わります。天草と水を鍋で煮詰め、煮汁を濾した後に固めたものがところてんです。
「この水がなかったら、うちもなかったのかなと。大切に残していかないといかんなあと思います。」と笑顔で語ってくれた筒井さん。
材料もこだわり、手間暇かけて創業当時からの変わらない製法を守り続けている清水屋さん。
暑い夏の日、遠い昔に思いを馳せながら、ひんやり冷えたところてんを食べてみてはいかがですか。
2017年7月19日
「サヌカイト」は固い棒などでたたくと澄んだきれいな音がする天然石です。世界で最大の産出地は香川県で、すでに旧石器時代には矢ジリや石刀として狩りなどに使われており、江戸時代には音のなる道具としても使われ始めたそうです。1981年に地質学者のヴァインシェイクが讃岐(さぬき)の岩の意をこめて「サヌカイト」と名付けたと言われ、1964年の東京オリンピックの開会を告げる合図としても使われました。
今回はサヌカイトを使用した製品づくりに取り組む平井石産の事務所兼作業場にお邪魔して平井美恵子さんにお話をうかがいました。
平井石産はもともと石の採掘から始まり、墓石をメインで扱う石材店でしたが、坂出ブランドの発足がきっかけで2012年から新たにサヌカイトの商品の販売を始めたそうです。現在は美恵子さんと社長のお二人で全てを切り盛りされていて、サヌカイト製品はなんと主に美恵子さん一人で作られています。
もともとは表面がザラザラしたサヌカイトの原石を何枚もの石板状に切断します。そしてその1枚の石板をさらに細い棒状に切断します。最後に角を面取りして表面を磨いて風鈴やチャーム※が出来上がります。
最初はグラインダーを使って手作業で石の切断を行っていたそうですが、サヌカイトは欠けやすく加工が難しいのでまっすぐきれいに切れずよく割れていたそうです。自作でグラインダーを固定する台を作ったりと試行錯誤の末、今は平らな円盤状の歯がついた大型の設置式の機械を使っています。歯の大きさが機械ごとに違うので削りたい石の大きさによって機械も使い分けます。機械を動かすと大きな音を出すため大声で叫ばないと会話もできないようで、その様子はまるで喧嘩のようとのこと(笑)。
演奏用の石琴は複数のチューナーを使い、微調整を繰り返すそうです。
ちなみにこちらのチャイム(写真左)の音色には日本音響分析所の分析によると「1/fのゆらぎ」が含まれ、その音を聞くとα波の増加傾向がみられ非常に高いリラックス効果が得られるそうです。
平井さんによるとサヌカイトの魅力はそのゴツゴツとした無骨な見た目と音とのギャップだそう。今回お話を伺ってみると音に対しての繊細なこだわりなど、女性が作られているのも納得だと感じました。
「讃岐」「石」「音」にちなんで新たに「SANUKITONE」というブランドを立ち上げ、まだまだ全国的に知名度の低いサヌカイトをより多くの人に知ってもらいたいそうです。
※チャームは栗林庵店頭のみの販売となります。
2015年2月 2日
小豆島の南側、日当りのいい池田地区。その池田の玄関口、池田港から徒歩数分、そこに東洋オリーブさんの工場と畑があります。
今回、お話を伺ったのは営業部長の藤塚隆さん。
自社の畑を持ち、苗木生産、栽培、食品製造、化粧品製造、販売までを手がける東洋オリーブ。藤塚さんも入社したての頃は製造の仕事に携わっていたそうです。
昭和30年、今から約60年前に小豆島でオリーブの栽培を始めた東洋オリーブ。現在は小豆島池田地区に12ha、豊島に13ha、約3万本のオリーブの木を育てる畑があり、その広さは日本最大の面積を誇ります。
始まりは戦後間もなく、一時は日本の三大億万長者の1人とも呼ばれた南俊二氏が海運王オナシス氏と食事した事がきっかけです。南氏は釣ったばかりのイワシを油で揚げたシンプルな料理の美味しさに釘付けになります。その揚げ油がエキストラバージンオイル。ギリシャ出身のオナシスの話を聞くうちに「この感動を日本に伝えたい!」という想いが強くなり、ギリシャから帰国後、日本でオリーブ栽培を行なっている場所を探して見つけたのが小豆島。
何も無いところからスタートしたオリーブ栽培は、山を開墾することから始まります。最初の頃は豚や牛を飼いながらその堆肥で土づくりを行ないました。
「この事業は半世紀かかる。50年赤字が続いてもいいからひ孫の代に残していける事業にしよう。」そう語り、半世紀先を見据えたこのオリーブ栽培の事業は、48期目にようやく黒字になりました。
地域密着型の会社であること、大きくしなくていいから、きらりと光るものを大切にコツコツと積み上げていくこと。東洋オリーブは、初代、南俊二氏の想いを今でも大切にしている会社です。
東洋オリーブには、日本で最大の遠心分離法の採油工場があります。実は東洋オリーブが工場を作るまで小豆島にはオリーブの採油工場は有りませんでした。民間初のオリーブ工場はそれまで農業試験場しかなかった小豆島内で、東洋オリーブ自社以外の採油や加工なども請負い、小豆島のオリーブ栽培の縁の下の力持ちとして活躍します。
長年培った高い採油技術を使用し、地中海から仕入れたエキストラバージンオリーブオイルを日本人の好みに合わせて精製しています。
右が精製前のエキストラバージンオイル、左が精製後のオイル。
一見、なんだかもったいない!と思ってしまいますが、オリーブオイルの販売を始めた当初、オリーブ独特の香りは日本人の味覚には馴染みづらかったため、この精製オイルが生まれました。
オレイン酸を多く含みながらも、サラサラと透明なこのオリーブオイルは癖がなく普段使いや、揚げ物に向いています。
毎月第一土曜日には自社の工場で精製したオリーブオイルの計り売りもしており、近所の方が朝早くに並んでいたり、船に乗って買いに来られる方もいたりするほどの人気です。
毎年11 月には小豆島でとれたオリーブオイルの販売も始まります。料理によってオリーブオイルを使い分けてみる。そんな贅沢なことも出来てしまいます。