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2013年11月 1日
「讃岐三白」とは、江戸時代に特に盛んだった讃岐の3つの産業である砂糖、塩、綿を総称した言葉です。
その砂糖とは和三盆の事です。糖蜜を抜いた白砂糖は当時、非常に重宝され、高松藩の特産品として全国に知られるようになりました。
名前の由来は3回盆の上で研いで作られるからとも言われています。
「研ぐ」とは盆の上で砂糖の結晶をより細かくして、糖蜜を抜けやすくするための作業の事です。何度も研がれる事により口に入れると、ほろほろと砂糖が溶け出すやわらかいまあるい食感を生み出しています。
讃岐和三盆の老舗、三谷製糖が位置するのは東かがわ市馬宿。
徳島とのほぼ県境、目の前に瀬戸内の穏やかな風景が広がる阿波街道沿いに三谷製糖はあります。
三谷製糖の創業は1804年。
約200年もの歴史をもつ三谷製糖は増改築を行っていますが、基本的には創業当時そのままの建物と道具を使っています。国の重要有形民俗文化財にも指定されている製糖器具をはじめ、本舗主屋や旧牛舎なども国の登録有形文化財になっています。
取材に訪れた際、8代目女将さんがゆっくり、それでいて凛とした口調で三谷製糖について教えてくれました。
讃岐和三盆の歴史を辿ると、薩摩の黒砂糖へとつながります。
江戸時代初期、砂糖は日本の中では薩摩で作られる黒砂糖が主流でした。やがて幕府は国内での製糖を奨励するようになります。高松藩では藩医の平賀源内がその役を命じられたものの、良質のサトウキビを入手できず、弟子のそのまた弟子の向山周慶までその役は引き継がれます。
時を同じくしてその頃、遍路で行き倒れた旅人を向山周慶が助けます。この出来事に恩を強く感じた旅人は再び、ひっそりと小舟に乗って讃岐の地へサトウキビの種キビとともにやってきます。
そう助けた旅人は奄美の人。
当時、門外不出のサトウキビを藩外へ持ち出す事は重罪です。
「それほどまでに恩に感じていたんでしょうね。」
こうして讃岐の地でサトウキビは、非常に運良く、お米が出来にくい土地にしっかりと根をはります。
現在も三谷製糖周辺にはサトウキビ畑があります。
高松藩でサトウキビが育ったものの、風土が違うため薩摩で作られる黒砂糖の様に固く甘味が強い砂糖にはなりませんでした。
向山周慶をはじめこの土地の人々は、薩摩の黒砂糖に負けない美味しい砂糖の作り方を考えます。そこで思いついたのが砂糖から糖蜜を抜く方法でした。
「当時の記録を見ていく、和三盆の製法を生み出すのに数十年もの歳月を要したようです。道具も、製法も全て自分たちで考え、生み出されたのが和三盆なのです。」
そのときに考えだされた製法を、地元の庄屋5軒が門外不出の製法として引き継ぎます。それが1804年。その5軒の中で唯一現在も経営を続け、その当時からの門外不出の製法を守り作り続けているのが三谷製糖です。
「薩摩の人たちも和三盆の作り方を真似したそうですが、同じにはならかったそう。この土地で作ったさとうきびでないと、この和三盆はできないんです。」
和三盆へ仕上げて行く際に使用されるのが国の重要有形民俗文化財にも登録されている押し舟です。
サトウキビの種キビを土の中へ生けるのは11月中頃です。
春、職人さんが畑に赴き、サトウキビの植え付けの作業も行います。
1年かけて地元の農家さんが育て、12月に収穫。この時期が最も忙しい時期だそうです。
収穫したサトウキビを絞った汁はその日のうちに炊き上げ、白下糖という原料糖にします。
「白下糖作りが始まるこの時期は本当に忙しいです。」
収穫したサトウキビを白下糖へ仕上げる作業は、長いと1月下旬まで続きます。そうして出来上がった白下糖を1年かけて少しずつ和三盆へと仕上げて行きます。
和三盆へ仕上げて行く際に使用されるのが、国の重要有形民俗文化財にも登録されている押し舟。盆で研いで押し舟でじっくりと蜜を抜く、この作業を5回繰り返し、三谷製糖の和三盆が出来上がります。
「ここの土地以外でのサトウキビではできない。ここの土地でしか出来ないものなんです。」
畑に行く所から和三盆へ仕上げて行く行程までを同じ職人さんたちが一貫して行います。そんな職人さんたちの働き方も含め本当にこの土地でしかできない味を作り続けている、それが三谷製糖さんなのです。
2013年11月 1日
三野製麺所がつくる乾麺は、乾燥しているので添加物を加えなくても長期保存が可能。さらに、ゆでればお店で食べるできたての讃岐うどんと同じのどごし、香り、コシが堪能できます。本場の味が楽しめるとあって、県外さらには海外から注文が来ることもあります。
「ゆでたうどんをそのまま乾燥させただけなんよ。シンプルでしょう?」と奥さんは言います。しかし、同じ作り方の乾麺を他では見たことがありません。なぜでしょうか。うどん作りの現場を訪ねました。
先代が亡くなり、現在は息子さんの兄弟夫婦が中心となってうどんを作っています。
三野製麺所は今では乾麺と冷凍うどんの専門店となっていますが、最初は昭和初期に水車で小麦粉をひく製粉所として始まりました。「その頃のお客様は、ものご(入れもの)を持ってうどん玉を買いに来て下さり、子供のおつかいも多かったそうです。」と奥さんはおっしゃいます。
昭和40年ごろ、先代は「余った麺がもったいない。そうめんのように乾燥して保存しておけば欲しいときにすぐにゆでて食べられるのではないか」と思いつき出来たのが現在の乾麺です。
うどんは、ゆでてから時間が経つにつれて、コシとツヤがなくなってしまいます。三野製麺所の先代は、ゆでてしまったお店のうどんを捨てることなく、たくさんの人に食べてもらいたい、という食べ物への愛情や「もったいない精神」で、この乾麺を思いついたそうです。
2度寝かして丸めた生地をきれいに整えます。
乾麺をつくる現場を訪れたのは朝9時。すでにうどん生地はできていて、最後ののばしの作業を迎えていました。
「毎朝、4時くらいにはうどん生地を作り始めとるんよ」と奥さん。
発送用の、しかも保存のきく乾麺をつくるのに、なぜ早朝から作業を始めなければならないのでしょうか。
「手打ちうどんの行程はうどん屋さんと同じやけど、うちはさらにそれを乾燥させて、包装、発送するからね」
つまり、うどんを作る工程は、うどん生地作りからゆでるところまで、一般的なうどん屋さんと全く同じ。出来上がったうどんはその場で食べることができる状態のものです。ゆでたうどんをそのまま提供するのではなく、その後、全国、全世界へ届けるための工程があるため、早朝から作業を始める必要があるのです。
小麦粉と塩と水を混ぜ合わせて生地を作り、時間をかけて生地を寝かして、のばし、鍛えて、切る。その様子は昔ながらの手打うどん店そのものですが、三野製麺所ではところどころで機械を使っています。生地を平らにのばす機械はとても年季の入ったものでした。
「これは、うどん足踏み機といって、先代でもあるうちの父親が手作りした機械なんや」
先代はもともと機械製造の会社に勤めており、家業の製粉所を継ぎ、のちに手打うどんの世界に入ったそうです。
先代が手づくりした「うどん足踏み機」。
うどん生地を足踏みすることは、うどんのコシの生命線ともいえる大事な作業です。しかし、昭和40年代に「食べ物であるうどんを足で踏むのはよくない」という足踏み禁止令が出るという噂が広まり、先代は自ら設計して足踏み機を作ったそうです。
兄弟でうどん生地をのばして、切ったものからゆでていきます。
ゆであがって氷水で締めたうどんを、奥さんたちが1食分ずつ乾燥用のざるにあげていきます。
三野製麺所と他のうどん店との大きな違いは「ゆで時間」です。三野製麺所の乾麺は食べる前にもう一度ゆでるので、そのゆで時間も考えて乾燥前は通常よりもゆでる時間を短くしています。ゆであがったうどんを冷水で締めて、それを奥さんたちが手際よく1食ずつ計量して、乾燥用のざるにあげていきます。
「しっかり乾燥させないと、保存がきかないでしょう。けれど、乾燥しすぎると表面がひび割れしてしまうんよ」
そう笑いながら、奥さんはうどんの入ったざるを抱えて乾燥室へ入っていきました。この乾燥の行程は企業秘密だそうです。
しかし、三野製麺所の皆さんを見ていて、世界の人に愛されるうどんの秘密は、乾燥のしかただけではなく、「たくさんの人においしいうどんを食べてもらいたい」という想いなのだと感じました。
一晩しっかり乾燥させた乾麺。手前が通常の太麺、奥が細麺です。
生地作りからお客様へのお届けまで、多くを手作業で行っているうどん作り。その製法は昔から変わることなく受け継がれており、手間暇のかかる、大変な製法です。けれど、その一つ一つの作業や手間を惜しまない愛情をかけたうどん作りが、古くは国鉄の時代から鉄道小包で遠方へうどんを届けていたという、全国、全世界にいる三野製麺所のファンを惹きつけてやまない魅力の一つでもあります。