(有)三谷製糖羽根 さぬき本舗のこだわり
讃岐三白の1つ和三盆
「讃岐三白」とは、江戸時代に特に盛んだった讃岐の3つの産業である砂糖、塩、綿を総称した言葉です。
その砂糖とは和三盆の事です。糖蜜を抜いた白砂糖は当時、非常に重宝され、高松藩の特産品として全国に知られるようになりました。
名前の由来は3回盆の上で研いで作られるからとも言われています。
「研ぐ」とは盆の上で砂糖の結晶をより細かくして、糖蜜を抜けやすくするための作業の事です。何度も研がれる事により口に入れると、ほろほろと砂糖が溶け出すやわらかいまあるい食感を生み出しています。
創業1804年、三谷製糖
讃岐和三盆の老舗、三谷製糖が位置するのは東かがわ市馬宿。
徳島とのほぼ県境、目の前に瀬戸内の穏やかな風景が広がる阿波街道沿いに三谷製糖はあります。
三谷製糖の創業は1804年。
約200年もの歴史をもつ三谷製糖は増改築を行っていますが、基本的には創業当時そのままの建物と道具を使っています。国の重要有形民俗文化財にも指定されている製糖器具をはじめ、本舗主屋や旧牛舎なども国の登録有形文化財になっています。
取材に訪れた際、8代目女将さんがゆっくり、それでいて凛とした口調で三谷製糖について教えてくれました。
奄美、瀬戸内海、讃岐、、、つながる歴史
讃岐和三盆の歴史を辿ると、薩摩の黒砂糖へとつながります。
江戸時代初期、砂糖は日本の中では薩摩で作られる黒砂糖が主流でした。やがて幕府は国内での製糖を奨励するようになります。高松藩では藩医の平賀源内がその役を命じられたものの、良質のサトウキビを入手できず、弟子のそのまた弟子の向山周慶までその役は引き継がれます。
時を同じくしてその頃、遍路で行き倒れた旅人を向山周慶が助けます。この出来事に恩を強く感じた旅人は再び、ひっそりと小舟に乗って讃岐の地へサトウキビの種キビとともにやってきます。
そう助けた旅人は奄美の人。
当時、門外不出のサトウキビを藩外へ持ち出す事は重罪です。
「それほどまでに恩に感じていたんでしょうね。」
こうして讃岐の地でサトウキビは、非常に運良く、お米が出来にくい土地にしっかりと根をはります。
現在も三谷製糖周辺にはサトウキビ畑があります。
試行錯誤のなか生まれた讃岐だけの和三盆
高松藩でサトウキビが育ったものの、風土が違うため薩摩で作られる黒砂糖の様に固く甘味が強い砂糖にはなりませんでした。
向山周慶をはじめこの土地の人々は、薩摩の黒砂糖に負けない美味しい砂糖の作り方を考えます。そこで思いついたのが砂糖から糖蜜を抜く方法でした。
「当時の記録を見ていく、和三盆の製法を生み出すのに数十年もの歳月を要したようです。道具も、製法も全て自分たちで考え、生み出されたのが和三盆なのです。」
そのときに考えだされた製法を、地元の庄屋5軒が門外不出の製法として引き継ぎます。それが1804年。その5軒の中で唯一現在も経営を続け、その当時からの門外不出の製法を守り作り続けているのが三谷製糖です。
「薩摩の人たちも和三盆の作り方を真似したそうですが、同じにはならかったそう。この土地で作ったさとうきびでないと、この和三盆はできないんです。」
和三盆づくりは1年をかけて行います
和三盆へ仕上げて行く際に使用されるのが国の重要有形民俗文化財にも登録されている押し舟です。
サトウキビの種キビを土の中へ生けるのは11月中頃です。
春、職人さんが畑に赴き、サトウキビの植え付けの作業も行います。
1年かけて地元の農家さんが育て、12月に収穫。この時期が最も忙しい時期だそうです。
収穫したサトウキビを絞った汁はその日のうちに炊き上げ、白下糖という原料糖にします。
「白下糖作りが始まるこの時期は本当に忙しいです。」
収穫したサトウキビを白下糖へ仕上げる作業は、長いと1月下旬まで続きます。そうして出来上がった白下糖を1年かけて少しずつ和三盆へと仕上げて行きます。
和三盆へ仕上げて行く際に使用されるのが、国の重要有形民俗文化財にも登録されている押し舟。盆で研いで押し舟でじっくりと蜜を抜く、この作業を5回繰り返し、三谷製糖の和三盆が出来上がります。
「ここの土地以外でのサトウキビではできない。ここの土地でしか出来ないものなんです。」
畑に行く所から和三盆へ仕上げて行く行程までを同じ職人さんたちが一貫して行います。そんな職人さんたちの働き方も含め本当にこの土地でしかできない味を作り続けている、それが三谷製糖さんなのです。