【手描き鯉のぼり 三池】手のひらサイズの手描き鯉のぼり
昭和の頃には、春先から端午の節句にかけて日本各地で大きな鯉のぼりが大空を泳いでいた。
しかし今では、鯉のぼりをあげている家は少なくなってきている。
今回、坂出市のご自宅で手描き鯉のぼりを制作している「手描き鯉のぼり 三池」さんを訪ねた。
もともと奥さまのご実家が製造業を営んでおり、三池さんは元々はサラリーマン。三池さんが本格的に鯉のぼりを作り始めたのは57歳の時、お義父さまが亡くなられてからの事。それまでは、お義父さまが依頼を受けて、小学生たちに実演を行う際にお手伝いをするくらいだったそうだ。
それが、いまでは20年近く手描き鯉のぼりを作りつづけている。なにか特別な想いがあるのだろうと思いきや、「使命感があったわけではありません。ただ次の世代への繋ぎになれれば。」と笑う。
鯉のぼりの素材は昔ながらの和紙。明治ごろは和紙のものが多かったそうだ。布製の鯉のぼりもあったが、戦後しばらくまでは物資不足もあり、和紙の鯉のぼりが主流だった。
「和紙を貼り合わせて、鯉の形に裁断、成形して大きな鯉のぼりにしていました。」と奥さま。
ここで、そもそも鯉のぼりがどんな経緯で生まれたのかに触れておきたい。
江戸時代、武士が端午の節句に家紋の入った幟や吹き流しを飾る習慣があった。それを、一般の庶民がまねて鯉のぼりをあげたのがはじまりだと言われているようだ。なぜ鯉なのかについては中国の故事が由来だとされている。「登竜門」ということばにもなっている、中国の黄河にある龍門。そこを登り切った鯉は龍になる、と言われていることから、鯉の滝登りは立身出世の象徴であり、それを模した鯉のぼりにも、跡継ぎに対する立身出世への願いが込められているのだろう。
話を戻して、奥さまのご実家のお店について、その歴史を見ていきたい。先々代で創業者の山下さん(奥さまの旧姓は山下さん)が播州、いまの兵庫県で鯉のぼり作りを学び、そのノウハウを持ち帰ったのが始まりだという。
しかし、鯉のぼり屋といっても、年間を通して鯉のぼりだけを作っていたわけではなく、「鯉のぼりは季節ものなので、季節によって凧や灯籠なども作っていた。和紙や竹ひごなど使用する素材が一緒だったから。」とは奥さま。
奥さまも子供の頃からお父さまのお手伝いされていたそうだ。
「分業で製作していたのでご家族と従業員の方を合わせて10人くらいで分担しながら製作していました。」
三池さんによると「当時は皆、絵が描ける人たちばかりでした。お義父さんは下書きもせず、感覚で描いていました。」ならば絵を描く事が好きだったのかと思いきや、「好きというよりは、職人だったから。」と奥さま。職人として経験を積んだからこその技だったのだろう。
また、鯉のぼりに纏わるこんなエピソードを語ってくれた。
以前は一般的に母方の実家が鯉のぼりを用意していた。立派な鯉のぼりをあげることが1つのステータスであり、立派な鯉のぼりをあげると、「良い嫁がきてくれた」と言われていたそうだ。ところが、だんだんサイズが大きくなってしまい、最終的に「競争になるから、鯉のぼりは揚げるな。」なんてことになってしまった地域もあったという。
昭和のバブルのころには、海外へも輸出されていたという。
「製作した鯉のぼりにMade in Japanの印を押して、輸出していました。」
端午の節句にあげるためではなく、「玩具」として輸出され、パーティーの飾りやタペストリーなどのインテリアとして流通していたようだ。アジアのエキゾチックでオリエンタルなデザインがウケていたのであろう。
瀬戸大橋が開通した際には、記念公園で家族総出で実演販売を行なったそうだ。
「あれが大きなイベントとしては最後だった」と懐かしそうに語る。
いまでは住宅地やマンション住まいなど生活環境の変化、端午の節句に対する価値観の変化によって、鯉のぼりをあげることが少なくなっている。
そんな現状に三池さんは、「子どもの頃に鯉のぼりをあげていた年配の方には、鯉のぼりへの郷愁があると思います。玄関先などに飾って季節を感じていただければ。」と語る。
そんな思いから三池さんの代に誕生したのが、栗林庵でも販売している卓上サイズの小さな手描き鯉のぼりだ。
「お義父さんの代まではここまで小さなサイズの鯉のぼりを作ってはいませんでした。お客さんの要望に応えていたら、いまの形になったんです。」
土台の木は資材屋で買って来た材木を、三池さん自身で成形しているそうだ。
鯉のぼりの口部分と木の支柱に巻き付けてあるワイヤーは別々になっている。支柱側のワイヤーは「く」の字型でそこに鯉をはめて固定しているので、鯉を引っ張ると簡単に外すことができる。これは普段コサージュ等を作っておられる奥さまのアイデア。
「手芸用のワイヤーを使ってこういう形にしてみたらって」と奥さま。
お二人の共同作業によって、いまの形が出来上がった。
以前は顔料を使って彩色していたが、鯉のぼりのサイズが小さくなったので、いまではアクリル絵の具と墨汁で小さな鯉のぼりにひとつひとつ丁寧に鯉の姿を描いている。その細やかな仕事から、「印刷しているのでは?」とおっしゃられる方もいるのだという。
そんな三池さんに奥さまは「とても細かいところまでこだわってつくっているので、工程見本をつくっておかないと次の世代が同じように作れない」とほほ笑む。
しかし今後の展望について、「後継者の問題もあり、手描き鯉のぼりが継承されていくかどうかはわからない」と三池さんは語る。
鯉のぼりは当初、歌川広重の浮世絵に描かれているように真鯉一匹だった。それが時代の流れの中で緋鯉が増え、今では青や緑の鯉もいる。子どもを意味した真鯉がお父さんに、緋鯉がこどもに。今では緋鯉はお母さん、その下にいる小さな鯉が子どもたちにそれぞれ変化している。
鯉のぼりは、その誕生から現在まで、時代に合わせて変化を続けてきた。ただ子を想う親の気持ちは変わらないはずだ。
大空を泳ぐ姿は雄大で美しい。
一方で、小さな和紙の手描き鯉のぼりには素朴な風合いと愛らしさがある。いまのライフスタイルに合わせて生まれた小さな手描き鯉のぼり。お子さんのいる家庭で端午の節句に合わせて飾るのはもちろんのこと、季節の風物詩やインテリアとして飾ってもいいかもしれない。三池さんの作る鯉のぼりの最大の魅力はここにある。気軽にそして手軽に、日本の風物詩を味わうことができる。
バブルの頃海外に輸出されていたと先に述べた。栗林庵には海外からのお客様も多い。日本的なお土産を求められる方にとっては最適なアイテムの一つだ。また、逆に日本から海外へ行くので、何か良い手土産はないかと探しているお客様も意外と多い。日本的かつコンパクトで持ち運びがしやすい小さな手描き鯉のぼりはそんなニーズにも答えてくれる。大空は泳がないかもしれない、しかし空を飛んで異国の地にたどり着くのだ。
昔を懐かしんで、子どもの健やかな成長を願って出産祝いやお誕生日の贈り物として、また新築祝いや引っ越し祝いなどのギフトにもぜひ活用してほしい。後継者問題は気がかりではあるが、手描き鯉のぼりにはこれからも子どもたちの成長を見守ってほしい。